古代史は面白い

nostalji2013-08-24

水谷千秋:著の『継体天皇朝鮮半島の謎』(文春新書:2013年7月20日第1刷発行)を読了。遠い血縁(応神天皇の5世孫)、地方出身(越前・若狭)にもかかわらず天皇の座についたのは何故か? 味方したのは誰か? 緊迫する朝鮮半島との関係にどう対処したのか? 考古学上の成果と文献考察を突き合わせて継体王朝の実像を探った本です。
応神天皇から仁徳天皇という直系王族が武烈天皇で途絶え、朝鮮半島との交易などで強力な経済基盤を築いていた継体を大和朝廷の豪族たち(中心は大伴と物部)が担ぎ出したんですな。だけど、豪族の中には反対勢力もあって、継体天皇は即位しても20年間は大和に入れず、北河内の樟葉など大和盆地の外縁で過ごしています。当時の大和朝廷は豪族たちが支えた連合政権で、豪族の間で勢力争いもあったのね。中立だった蘇我氏継体天皇の大和定着に手を貸し、527年に大和・磐余玉穂宮に入ります。その頃、朝鮮半島任那日本府のある伽耶国が新羅に圧迫されており、継体天皇が大和に入るや近江毛野臣に6万の兵をつけ南伽耶を武力支配しようとします。しかし、九州で勢力を増大していた磐井が毛野臣の行く手を阻みます。磐井は新羅から贈賄を受けていたんですな。毛野臣と磐井はかつて同僚であったことと、磐井を打ち破っても兵を損耗して新羅との戦いは無理と判断した毛野臣は大和へ引き返します。翌年、大伴金村物部麁鹿火が磐井を討伐し、九州を平定。継体天皇は即位する前から百済武寧王と交易を通じて親密だったようで、百済文化を積極的に取り入れます。でもって、継体天皇の死後、文化導入を牽引していくのが百済からの帰化人・蘇我氏ね。蘇我氏は権力を拡大していって……