映画で確立

nostalji2010-06-16

録画していた『伊豆の踊子』(1963年・日活/監督:西河克己)を観る。川端康成の同名小説の4度目の映画化で、吉永小百合主演の映画ね。私は内藤洋子と山口百恵のものを観ているのですが、あれこれ違うのが面白いです。たとえば、この映画では大学教授の宇野重吉が、教え子の学生・浜田光夫から彼の恋人でダンサーの吉永小百合を紹介されて過去を回想するという形で始まります。モノクロ映像がカラー映像になり、高橋英樹宇野重吉の若き日)が登場して本編が始まるわけです。そして、高橋英樹(学生)と吉永小百合(踊り子)の別れの後、モノクロ画面に戻り、宇野重吉が目を細めて見つめる先を、浜田光夫吉永小百合が手をつないで去っていくエンディングとなります。自由に恋愛できる現在の若者との対比を狙ったのでしょうが、試みとしての面白さはあっても、学生と踊り子の別れの感動が薄らいでしまいますね。
身分違いの学生に恋心を抱いた踊り子が傷つくのを心配する母親・浪速千栄子や旅芸人の哀愁を滲ませる踊り子の兄・大坂志郎の演技の巧さもさることながら、病気の娼婦役でワンシーンだけに登場する十朱幸代が存在感を持っていました。この娼婦は、内藤洋子版にも山口百恵版にも登場しますが、原作にはないんですよ。同じ作者の『温泉宿』という小説に登場するお清(十朱幸代の役名もお清だった)を映画の『伊豆の踊子』に登場させているんです。この娼婦が、どの『伊豆の踊子』から登場するようになったのか知らないのですが、映画での定番みたいになっていますね。
画像は、吉永小百合の踊り子。私たちの年代だと、ヨーコちゃんでもモモエちゃんでもなく、やっぱりサユリちゃ〜んです。