ハリマオの真実

nostalji2006-08-06

暑くならない前に散歩をかねて、図書館へ借りていた本の返却に行く。でもって、昨日観た『マライの虎』の関連で『ハリマオ・マレーの虎、六十年後の真実』を借りてきました。ついでに、『玉置宏の昔の話で、ございます』、『「李香蘭」を生きて』、『邪馬台国の殺人』もね。
早速、山本節:著の『ハリマオ・マレーの虎、六十年後の真実』(大修館書店:2002年3月17日初版発行)を読了。谷豊が何故ハリマオと呼ばれるようになったのかを知りたかったのですが、結局わからずじまいでした。タイ国境に近いマレー東岸の港町クアラ・トレンガヌで谷一家は理髪店を営んでいましたが、1933年に満州事変が勃発し、反日華僑の暴漢に8歳になる妹が虐殺される事件が起こります。当時、豊は帰国して福岡に居たのですが、前々年に父親が死んだこともあって、帰国した家族から妹の事件を知るやマレーに戻ってきます。イギリス官憲の手ぬるい事件処理に怒った豊は、表面上は理髪店をしながら、裏では英国人や中国華僑に対しての強盗稼業。最初はコソ泥程度だったものが、行動半径が拡大していき、1938年頃にはマレー・タイ国境を挟んで、マレーのコタ・バルとタイのナラティワッを本拠地にして3千人の部下を従え神出鬼没の活躍をします。そして、いつしか“ハリマオ・マラユ(マレーの虎)”と呼ばれるようになるんですね。日英戦争を目前に控えた1941年、南方方面の特務機関(F機関)が、マレー方面の工作にハリマオを利用しようと考えます。マレーの官憲から追われてタイで潜伏中のハリマオはF機関の要請により日本軍に協力することになります。そして、日本軍の作戦を手伝ってジャングル踏破中にマラリアに罹り、1942年3月17日に死亡します。ハリマオが英雄として日本国内で有名になるのは、4月3日に各新聞で伝説に彩られたハリマオの死亡記事が掲載されてからです。新聞記事の反響は大きく、さまざまなメディアがハリマオを題材とした作品を発表します。広沢虎造浪曲にまでなっているんですよ。戦前は戦意高揚が目的のメディアによる“大衆受け”する英雄作りは、戦後は商業目的に形を変えて続いていますねェ。